もう過ぎちゃいましたが、今年も日本はゴールデン・ウィークで、「昭和の日」を迎えました。昭和37年生まれの私には、やっぱり今でも「天皇誕生日」と言った方が、なんとなく馴染む感じがしますね。生まれてから30歳近くになるまで、ずっとその呼び名だったもので。1989年の昭和天皇崩御の後、一旦は「みどりの日」なる、意味不明な位置付けになって、その後2007年に今の名前に落ち着きました。つまり、21世紀生まれの若い人たちにすれば、昭和の日が刷り込まれているんでしょう。
その「昭和」なんですが、フィリピン在住の身の上なので、ネット上の話題を見てそう思うだけながら、最近やたら「昭和」って言葉を目にする気がします。特に今年は昭和100年。余計にそうなんでしょう。私がまだ保育園児だった1968年が明治100年で、記念切手が発行されたのを覚えています。明治帝の誕生日だった11月3日は、今でも「文化の日」として、国民の祝日の地位を保持。大正は短過ぎたのと、いろいろ事情があるらしく、明治や昭和のような記念碑的痕跡がありません。
それはともかく、昭和のお話。一番頻繁に引き合いに出されるのが、セクハラ・パワハラの犯罪報道や、犯罪まで行かなくても、嫌がる若手社員を無理やり飲み会や社員旅行に連れて行く慣習についての記事。つまり、これらすべてが昭和的な悪しき伝統、みたいに語られるわけです。ポジティブな方向の代表格が「バブル期」や「高度経済成長」のイメージ。今開催中の万博や数年前の東京オリンピックは、良くも悪くも昭和の成功体験の再現。
ただ、私と同世代か少し上の人たちが、同じような違和感を持つと思うのが、64年間もあった昭和を、あまりにステレオタイプに語り過ぎという点。
例えば戦前と一括りにしても、昭和元年(1925年)から10年辺りまでは、まだ日中戦争前で、大正時代の大恐慌からの回復期。電気が普及し始めたり、ラジオ放送が始まったりで、意外と明るい時期だったようです。そこからの変わり目が、二・二六事件。以降、軍部への傾斜が進み、昭和20年(1945年)の敗戦までが、映画やドラマでお馴染みの、軍人や憲兵が威張り倒した暗黒時代。それも極端になるのは、最後の数年だけかも知れません。ちなみに私の両親は、共に昭和11年(1936年)生まれです。
この時代を描いた映画として、私が出色の出来だと思ったのが、アニメ「この世界の片隅で」。太平洋戦争が激化した昭和18〜9年以降でも、庶民はしかめっ面して、四六時中、我慢してわけはなく、時には大笑いもし、痴話喧嘩もして、普通に生きていました。もちろん私が生まれる前の話なんですが、大阪の下町暮らしだった母や親戚が戦後語った当時の話が、まさに「この世界の片隅で」のイメージで、広島弁を大阪弁に置き換えれば、よく似た雰囲気。ただ小学生で食べ盛りだった母は、いつも空腹だったとこぼしてましたけど。
敗戦直後の10年間となると、食糧危機やインフレで生活は決して楽じゃなかったんでしょうけど、戦争からの解放感で、全体としては明るい時代だったようですね。6人兄弟姉妹だった母もご多分に漏れず貧乏でしたが、周囲がほとんど同じような貧乏人ばかりだし、日々の生活に一生懸命で、自分たちが不幸だとは思わなかったそうです。
その次の、昭和30〜40年代(1960年代)が、前述の高度経済成長時代。映画で言うと「三丁目の夕日」。この映画と原作のコミックが、昭和の「正のイメージ」を作っちゃったと思われます。まぁノスタルジックに描けば、昔は良かったってことになるし、物語としてはその方が面白い。でも実際に当時を生きた私にすれば、嫌なこともいっぱいありました。
特に私は、公害や交通戦争で有名な兵庫県尼崎市に育ったので、友達が交通事故にあったり、メダカ採りをしてた小川がドブになったり、夏場、光化学スモッグで外で遊べなかったり。もっと身近な話だと、便所が汲み取り式で、今思えば臭気がすごかった。
一番暗かったのが、1970年代のオイルショックの頃。私が小学生から高校生になるぐらいまで影響が続きました。その不況の真っ只中、建築業界で働いていた父は、国内の仕事に行き詰まりドバイへ海外出向。ドバイと言っても、今の未来的な街並みが出現する、はるか前で、その基礎を作りに行ったようなもの。現地でも苦労したそうですが、ドバイにいる間に日本の会社が倒産してしまい、残された家族は、社宅から追い出されそうになったりしました。この経験があるので、フィリピンで家族の残して中近東へ出稼ぎするOFW(海外フィリピン人労働者)の話には、つい過剰反応してしまいます。
私も子供ながら、この時期は毎日すごく不安で、世間で流行っているのはパニック映画や「ノストラダムスの大予言」に代表される、この世の終わりや人類滅亡の大合唱。私が初めて自分の小遣いで観た映画が「タワーリング・インフェルノ」ですからね。「宇宙戦艦ヤマト」の第一回が、小学生の私に衝撃的だったのは、ガミラスの遊星爆弾、つまり核攻撃で人類が滅亡の危機に瀕しているという描写が、当時の子供向けマンガ(アニメというジャンル名が定着したのは、ヤマト以降)にしては、あまりにリアルだったから。
こういう比較は、就職氷河期世代に配慮を欠きすぎるかも知れませんが、世の中の不況感、不安感、名状しがたい不穏な雰囲気は、失われた30年よりずっと深刻だった記憶があります。
そういう経緯なので、私が大学に進学する頃のバブルの浮かれ騒ぎは、リアルタイム的には自然な反作用でした。就職した頃なんて、週に2回ぐらい終業後にディスコやビリヤードに行ってたし、数年上の先輩は、車を毎年買い換えると豪語。1年落ちぐらいなら、そこそこの値段で売れるので、ちょっと上乗せするだけでグレードアップできると言うわけです。私だけでなく、父は黒のベンツSDLというバカデカい外車に乗り、母でさえ株に手を出してたほど。
まさに、あの時代の「イケイケドンドン」感覚を体現してたのが、今袋叩きに遭っているフジテレビというわけです。フジの企業体質はちょっと極端に過ぎますが、今ならセクハラで糾弾される行為も、表立って認められていないにせよ、ことさら珍しくもありませんでした。ただ、アルコールがダメな私は、飲み会や社員旅行の強制参加は本当に嫌でした。その分の手当が出るならまだしも、プライベートな時間を潰される上に費用が自腹って、どんな罰ゲームなんだ。
そんな一種の狂騒状態のピークで、昭和が終わりました。1989年の1月7日の天皇崩御の報を聞いたのは、当時付き合っていた彼女のアパートの部屋。土曜日の早朝で、前夜から泊まっていた私は、まだ彼女とベッドの中。我ながら、若気の至りでしたね。
ということで、いかに昭和が長く変化に富み、単一のイメージでは語り尽くせない時代かを書こうとして、結局、自分史になってしまいました。今回は、あんまりフィリピンは関係なくて申し訳ありません。